ふくろくん

コンテンツマーケティング、音楽、立ち話、そして牛乳

「会って話せばわかる」

本日はR25が終了した日。

正直なところ、日本の新卒就活をしたことがないので、あのフリーペーパーがどこまで若手社会人にとって重宝するものだったのか体感できてなかったので、個人的にインパクトは薄かった。

 

でも、上司の元編集おじいちゃんと「今後のレガシーメディア、どうなるんだろうねぇ」と話しながらティータイムしてたので、オフィスでR25終了について知った瞬間は本当に驚いた。

 

R25といえばリクルートリクルートといえば就活だ。自分の今後の就活は、どうあっても転職活動だ。

 

これまで書いてきたようにWantedly内の「お声がけ」からいろんな会社の人々にあってきたが、Wantedly経由の「カジュアルに、ざっくりとお話ししましょう」は信用してはならない。これだけは確実だ。

 

労働時間の1時間という膨大な時間と、トークという壮大なコミュニケーションコストをかけて挑まれる「カジュアル面談」は、相当ガチなものだ。そしてこれは大抵業務時間外ぽい、平日夜中に“現場社員”によって行われることが多い。(ほんと大変そうだ)

(もしほんとうに行きたい企業なら)心してかかりたまえ。

 

こちらも本気になる前に、ざっと社員やオフィスの雰囲気を知れるから良いのだけど、ネット社会なら会う前にチャット上で共有、相互理解できることいっぱいあるんじゃないかな〜、とは思う。

企業側にせよ、求職者側にせよ、もっとweb上でできる足切り質問を持っておいたほうが、採用効率上がるんでないかと思った。素人の戯言だけど、ソーシャルリクルーティングの形態はも少し変化してほしいな。

鞭打つベースが好き

ベノンベノンとした、鞭打つベースが好きだ。

蛇のように唸りながら、ライオンの尻尾のようにビシバシと叩きつけるような。

これが踊れる音だ。

Warm Healer

Warm Healer

音のサスティーン、リリースのタイミングが絶妙過ぎて、どうやって弾いてるんだろうかといつも気になっている。

ミュートしながらゴリゴリやってるのかな?

 

無駄のない一貫した人生にマンネリが訪れる

転職活動はいつのまにか始まっていた。

このところ某SNS系求人サービス経由でお声がけいただくことが増え、
アイスブレイク、面接、オフで会う、など色んな会社に顔を出している。

いうても今の会社に入ってたった1年、何かを成し遂げたようで成し遂げてはいないというか。

ひとりマーケターとして黙々と施策検証をおこなってきたけど、
ようやく答え、というか勝ちの方程式が見えた気がするので、会社に対してよい置き土産ができたのではないか。傲慢だけど。

話を転職に戻す。

転職活動のさなか、いろんな会社の人々とお話ししてみて、自分の人生を巻き戻してみた。

これまで、ずっと人生の一貫性を持たせることに終始していた。

自己の整合性を保つため、過去の自分を否定しないように、これまで培ったスキルや知識を伸ばせるような環境、可能性ばかり追い求めていた。

学問も仕事も、これまで自分なりに考えて出していた決断は、「今までのことを活かせるから、ほどほどできそうだろう」というラインの上で選んだものばかりだったのだ。でもそれが、自分の中の整合性を作り出していた。

そして今後選んでいく仕事も、また「自分ができること」をベースにしていくのだろうか。このことに対して、つまらなさを感じ始めた。

「自分の能力を活かせそうな分野」に属する人々と話すたびに、なにか虚しさを覚えた。それが何か、まだ言語化できていないけど、彼らの大義が自分の思う大義とズレがあったのだと思う。たったそれだけだ。それだけで、ここは自分のいるべき場所じゃないのかな、と進路は見つけないまま、戻るべきでない退路を見つけた気がした。

できないこと、できそうにないことをやってみてもよいじゃないか、あと何十年生きるんだよ君は? なんて考えるようになって、小手先のキャリア拡張より、コースアウト並みのキャリアチェンジも生まれ変わるみたいで楽しそうだな、なんて思ったりしてる。

銭湯の波打ち際

先日、軽めの転職オファーがあったので少し話を聞いてきた。
同世代の人たちがあつまる若いITベンチャーで、なかなか勢いのある感じだ。

1年経たずしてふたたび転職もどうだろうか、と思いつつも、今の会社のビジネスモデルを考えたとき、そして、今後のさまざまな変化に耐えることができる柔軟性を備えた組織であるかを考えてみると、杞憂というか心配ごとばかり浮かぶ。となりの芝生は青い。

どうしたもんじゃろのう、と先延ばししながら様子をうかがうことにする。

 

今朝、ランニングをした。

30分ほど軽く走り、喫茶店でホットドッグを頬張った。家へ戻る途中、近所の銭湯に寄った。

湯船に半身つかりながら、水面をぼーっと眺めていた。

ジャグジーのように強く噴射する泡が水を押し出し、湯船の外へあふれようとしていた。

きらきらと輝く波を見つめながら、小さい頃海に行ったことを思い出した。

海に行けば、砂浜を覆いつくそうとする波の動きをしばらく眺めていることが多かった。

ぐにゃぐにゃと前後する、あぶくのついた波の光を見るのが好きだった。

 

そんなものを見ることばかり夢中になっていた自分はどこに行ってしまったんだろうか。

そんな時間の過ごし方を、どこに置いていってしまったんだろうか。

もしイギリスから日本に戻っていなかったら、人工的な建造物の集合体から早々に抜け出して、天国みたいなビーチを備えつけにしたボロいテラスハウスでのんびり暮らしてたんだろうか。

"それ"が理想の暮らしだったんだろうか。堂々巡りのたらればを一生懸命追い続けてしまう。

 

自分がしたいことや、進む先についてここまでポンポンと変わっていくとは思わなかった。

マリオのゲームで出てくる落ちる足場を次々とかけ上がっていくように、危険を察知したらすぐに次の足場を目指していく......足場には金も国境も時間も所属も関係ない。

 

そんな考えで凝り固まってしまった気がする。

 

所属意識などそもそも強くなかった自分は、どこか1つのコミュニティに自分の居場所を見出し、ずっといることができたらどれだけ楽だろうか、幸福だろうか、と思うことがある。

しかし実際は、境界線を溶かし、自分と他人の関係をマーブルのように混じり合わせ変化していくことばかり。

流動、液体、不安定......目の前をそんなものたちで覆われて、固定されたひとつの軸を手に入れる必要性はあるのか。

先はあまりにも長くて深い。

ボイスレコーダー

 

作曲のために、普段使っているICレコーダーとは違う、小さなUSB型のボイスレコーダーを買った。
正しくは、ボイスレコーダー機能付きデジタルオーディオプレーヤーだけど。

自分を変えるためにモノを買う。2016年はそういうことはやや控えめだったけど、今年はとくべつ。自己投資の名の下にポンポン買っている。

しばらくサボっていたランニングを再開するためにコンプレッションウェアという新しいランニングウェアを買った。音楽制作をどこでもしやすくするためにipadを買った。「ノブ操作」で音を体で覚えるためにアナログシンセの実機も買った。

依存症の始まりかと言われたら返す言葉はないけれど、ツールを使って実践・行動を身近にして、習慣づけることは悪くない外圧だ。

ぜんぶ、iphoneで十分じゃない、と言われるのもすごくわかる。それでも昔から、シングルタスクしかできない機械に執着がある。モノと自分、一対一で対峙できるからこそ得られる感覚がある。マルチタスクに埋もれることなく、自分の血肉に変えられる何かを持ち帰ることができる。

一対一で取っ組みあってもがこう。

ボイスレコーダーから聞こえる自分の気だるい鼻声から「必然性」が見つかることがある。ここではじめて「これじゃないといけない」表現を「編集する」ことができる。自分からタネが産み落とされる瞬間ほど気持ち良いことはない。