ふくろくん

コンテンツマーケティング、音楽、立ち話、そして牛乳

暮らしています、作っています⑴

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久々のポエム。
 
ここ最近の自分の暮らしぶりの話です。
春に転職をして、夏には同棲を始め、2人で暮らしています。
 
朝の6時には起きて、夜8時前には自宅に戻って自炊して、夜の10時には眠りにつく。
 
ごくごくふつうと思われていた生活をようやく手に入れられました。
 
それはそれで素敵なことでもあるんですけど、生ぬるくも実体を感じる温かみがあって、低反発のクッションに体全体を預けているような感覚があります。沈みすぎて、少し溺れていような気もします。
 
ところで"ごくごくふつうと思われていた生活"っていったいなんでしょう。
3年前の自分の日記を見ると、こんな風に書いていました。
 
"このままこの会社で数年働いて、適当に転職を繰り返し、誰かと結婚して...そんな昭和後期〜平成初期のテンプレートを生き続ける。
全然悪いと思わない。むしろできるならばそうしたい。でもきっと違う。"
 
反芻するに、こう思う気持ちはまだあまり変わっていないようです。
 
この半年間、新しい仕事、新しい家、新しい人々など、新たな環境とルールに適応していくだけで精一杯...というよりも、享受することに没頭し、浸ることで”昭和後期〜平成初期のテンプレート”を曲がりなりにも体感することができた気がします。
 
ただ、これまでの自分がやってきたことと、これからやってきたいことの間に挟まれて、自分の内側に少しほころびができてきたのも否めません。
 
この考えに対してどう折り合いをつけるべきかを決める一つの分岐点を迎えて、大量のインプットと関連の薄いアウトプットにまみれてガサガサな状態でもようやく書きながら考える段階になったようです。
 
 
 
新しい家は、とても良いところです。
 
東京でおそらく最も治安の良いエリアに引っ越せたと思っています。そのせいか、一番引っ越してよかったと感じる部分は、家の周りが(妙に防犯意識が高いせいか)とても静かで、びっくりするぐらい落ち着いて眠れること。
前の家は、大きなトラックが早朝から行き交う卸の会社とガソリンスタンドが目の前にあったので、朝が遅い自分にはしんどかったです。
 
内装は、居間がやや広いようで、ソファとリビングテーブルを置いても空間を持て余してしまって、少しゆとりと同時に寂しさを感じています。ガス3口だけは絶対に欲しかったのでそれが確保できたでも大満足なんですが。
 
実は早くも愛着も湧いてきたり。
 
最近はあまり見なくなったんですけど、7月は家の敷地内にいるカエルが毎日迎えてくれていてました。親しみを込めて「ヌシ(主)」と呼んでます。
ヌシは複数いるようで、家の門を開けたところに植わっている草花の中に紛れて謎のカエル像が鎮座しており、なんだかんだいつも健在です。
 
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それから自分でも驚くほどに今は料理が楽しいです。引っ越してからは図書館に毎週通っているんですが、そこでレシピ本ばかり借りています。
 
図書館といえば、今住んでいるエリアにある図書館たちの新刊取扱開始のスピードが半端なく早いことは驚きでした。
 
例えば本屋で気になる本を見つけても、ほぼ必ずと言っていいくらいに在架になっていて、予約すればすぐに読むことができます。
もちろん図書館は便利であると認識は持っていましたけど、amazonの欲しいものリストに溜めておく必要がなくなりつつあるにもかかわらず、図書館に通う習慣ができるって消費的文化的衝撃でした。
 
 
もうひとつだけコンテンツの話。
 
日ごろテレビを見るようになったせいか、インターネット回線が安定してきたせいか、映像作品鑑賞の割合が増えてきました。シン・ゴジラ、ヤメゴク、SPECなどに没頭しています。タイミングが良かったのか悪かったのか、とと姉ちゃんに合わせた生活をしながら暮しの手帖文化発掘の日々を送っています。
能動性を必要としないメディアはとても楽、快楽的です。
 
 
 
ふたり暮らしについては、お互いの生活感覚に大きな差異がなかったようで意外とすぐに馴染んでしまいました。
 
これまで感じていた家という名の仕事・遊びなどの外部活動をメインとする拠点というより、家の中のコミュニケーションや佇まいなどの暮らしを味わうホームとしての機能・役割の色味が強くなっているのに「ライフスタイルの変化」を感じるところです。
 
 
振り返ってみると、これまでの半年間、自分は暮らしと受動主体のメディアに沈みかけていたと思います。
 
それでも離島へ行ったり、山を登ったり、ポートランドへ行ったり(この旅の内容はまた別で書こうと思う)、能動的な享受は行えているのは変わらずですが、能動的な生産、つまるところ「作ること」に関してはこれまで以上に、いや以前よりもコミットできていなかったことに悔しさを感じているばかりなのです。
 
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