ふくろくん

コンテンツマーケティング、音楽、立ち話、そして牛乳

ソフトウェアにお金を払えてこそ大人

いわゆるアナログシンセサイザーと呼ばれる電子楽器の音が好きなのだけど、名器として活躍していた製品はビンテージ扱いされていたりして、手に入りにくい。

そもそもシンセサイザーは発明されてからしばらくは数百〜千万単位で取引されていたし、富裕層のたしなみでしかなかった。

現行品でも数十万になるのはザラで、誕生から半世紀以上が経っても実機を買うのはお財布を引き裂くような思いをすることになる。

しかし今は21世紀。そんな与沢翼になりえないコモンピーポーのために、テクノロジーの力を駆使して古きよき楽器の音を再現したソフトウェアが売られている。一部はインターネットで無料ダウンロードもできる。

ほぼ無限にコピー・配布可能なソフトウェアにでもなってしまえば高値で取引されている楽器の音が手軽に手に入る。

ただ注意したいのは、無料版ではやはり機能・音質面では劣ってしまう。往往にして。

いくつも無料版を使ってきて、使い続けたものはほとんどない。スマホアプリよりも有償/無償の差が激しいので、わかりやすいといえばわかりやすい市場である。

もちろん今も無料版で良いものはどんどん出てきているが、昔の音(っぽいもの)を手に入れるためだけにソフトウェアごときに数万円、数十万と払えるのが一般ワーキングピーポーができる経済貢献ではなかろうか。

ソフトウェアが生み出す価値を見出し、それに対してある程度以上の感謝の気持ちを抱きながらさっと財布をパカっと開いて札束を床に落とす行為ができてこそ立派な大人である。そう、これは大人買いなのだ。

そして、ソフトウェア大人買いができる人間こそ、IT産業を軸としたこのグローバル社会で活躍できる「人財」のうつわがあることを示しているのだ。と言ってみたかった。

音楽⇄インターネット

興味の移り変わりの果てに、どんなに揺り戻しがあっても帰ってくる場所がある。それは思春期に寝食忘れるほど貪ったなにかなのかな、と思う。

 

また、いつもの楽しみが再燃してきた。ここしばらく、半年くらいだろうか、音楽、これを実行することへのモチベーションがやや下がり気味だったのだけど、また貪りたくなっている。

無駄な投資も含みつつもとりあえず新しいことを試す。お金と体を動かして聴いてみる、弾いてみる、作ってみる。

ミックスや曲の構成にについて考え出すと音楽をインターネットで探して聴く、使えるプラグインソフトウェアを探しにオールドスクールなノリで検索をひたすら繰り返しネットの海を旅する、風呂ではライブ動画を観る、音作りを考えるためにインタビュー記事を読み、使われている楽器を探し当てるためにいくつものネットフォーラムの中をまたオールドスクールに巡る、興味を持ったものはひたすらに買う、など挙げていけばキリがない。端的に言えばこれは聴きたい欲→作りたい欲への転換、きっかけづくりなのかもしれない。

今思えば、これらが自分にとって健全かつ永続的なインターネットの消費だった。

商用としてプロフェッショナルが産み落とした作品から放たれる感覚にたどり着こうとする少年の知的探求心が、自分だけの世界を作り出していく。すさまじい芸術品を咀嚼して、インターネットを巡りながら小さな感動を集めていく、ふたたびきっかけとなった芸術品に戻り、エッセンスを展開させた自身の芸術を作り上げようとする。
インターネットは、音に与えられた衝動を細かく分解し、まるで進路のアドバイスを真摯に送る教師のように自分の道を歩むまでの媒介をしてくれた。

働きはじめてから、生き残るための術としてインターネット上のニュースや情報を多く貪って来たけど、自分が得るものとしては人々の虚しさが多くを占めていた。それはあまりにも剥き出しで、受け止めるだけでもせいいっぱいだった。酷い事実ばかりで、どう美しいものへと転換するかは教えてくれなかった。

音楽は、転換の方法を巡るインターネットへの旅を与えてくれるスタート地点で、旅を終えたら自分はインターネットを介して音楽に帰ってくる。つらいことを忘れさせる作品づくりに向かわせてくれる。

 

寝食を忘れるほどに貪った、10年以上前に発売された音楽たちを抱えて、いくら出遅れようとも、いくら未熟であり続けようとも、酷い事実を忘れさせるほどの美しいものが作れるか、そこに至るまでは、自分は音楽に帰り続けていく……そんな気がしている。

日記32

2017.01.05.
今日は概して“返事がない日”だった。
色んなところにフォーマルカジュアル問わずばんばんメッセージを送った。

届いたのか届いてないのか、良い返事になるかならないか、先行き暗夜行路。

仕事帰り、有楽町線の電車でアメリカのバンドの歌を聴きながら、「ここがカリフォルニアだったら全部カラッと忘れられたのかな〜」と逃避してみた。

日本も冬だから乾燥してるはずだけど、手足に冷や汗らしきものが……少しぬるぬるする。この湿り気、日本らしさがある。

夕食ではご飯と豚汁、そしてたこ焼きを食べた。ほんとはたこ焼きをではなくイカを食べたかったのだけど、近所のまいばすけっとで在庫見当たらず苦い日々が続いている。

1月は、なかなか一筋縄ではいかない気がするぞ。

日記31

2017.01.04
朝に食べ過ぎ起因のリアル腹痛に襲われた。

出勤途中、同居人と夜が寒いねという話をして、羽毛布団を買おうという話をした。もとい会議
いわゆるウォーキングミーティングだ。残念ながら10分程度ではイノベーションは生まれなかったので、インサイトを探るために実地調査(ミステリーショッパー)を行うこととなる。

仕事では、ぽろぽろとしょうもないミスが見つかったが、さささ、さささと片付けていった。

そして、さっそく羽毛布団探しにいくつかのお店を回ってみたが、価格と機能を比べてみると、決断しにくい微妙なところをついてくるラインナップしか見当たらず、結局購入を見送った。湯たんぽや、電気毛布なども選択肢にあったが、踏み切れなかった。

結局自宅にあるモンベルの寝袋を布団の上に申し訳なさそうに広げてみたら、超絶暖かい!!!!!
死語ではあるが、「ヌクモリティ」とはこのことか、と夢の中で老婆に説教していた。

日記30


2017.01.01.
朝、とても寒かった。
5時ごろに目覚め、ふたたび眠り、9時か10時ごろにベッドを出た。

また羽田へ向かう。暇を持て余し、羽田の歴史について調べていた。
戦前の敷地内はビーチレジャーと大きな神社があったそうだ。エンターテイメントと宗教が混じる土地は確かに国際間のハブにふさわしいなあ、と思った。

戻りに品川へ寄り、カフェで軽くランチを済ませた。そのまま山手線で駒込まで戻り、家まで歩いた。
風は強かったけど、快晴で気持ちが良かった。

 

2017.01.02.
鬼怒川に行くことになっていたので、昼過ぎに集合場所の北千住に向かった。自分の住んでいるところからの直線距離は大したことがないのに、えらく遠回りをさせられる。

鬼怒川温泉の駅は、ちょうどよく力が抜けていて、かといって整備を怠っている様子もない、有り体に言えば豊かな観光地だった。
観光地となると、観光地ナイズドされた建物や人々、商品やサービスなどが気になってしまうタチなのだが、ここはそんなことはないように思えて、とても好感触だった。

親戚の集まりで使われそうな居酒屋さんで夕食をいただき、戻ったホテルでは、これぞ修学旅行の醍醐味と言わんばかりに、のんびりとお酒とカジュアルトークを嗜んだ。

 

2017.01.02.
朝からアイスを食べた記憶がある。
朝ごはんでは、カレーライスを食べた。自分は、旅行先でどこにでもあるようなものを食べるのが好きだ。確実にオンリーワンのものを楽しむのも好きだが、その土地土地での味付けのされ方に違いを見出すのが楽しい。漢字の音読み訓読みを楽しむように、地味な違いを探るのだ。以前、長野の松本で人生初の単独旅行をしたことがあったが、そのときも、ミスタードーナツを最も楽しみながら味わっていたと思う。そういうものなのだ。

昼過ぎからは日光江戸村に行ったが、これほどまでに「もう一度行きたい」と思わせるアミューズメントパークはない。この魅力は、言葉がどれだけあっても語りつくせないほどで、語られたものを読み解くよりは、自らの身をもってして体験してきたほうが早いと言える。

帰宅途中、晩御飯にカレーをサジェストされてしまった。
サジェストしてきた猫愛好家の同居人には、日光江戸村の公式マスコットにゃんまげの魅力は伝わらなかった。